始まりは、この一枚の写真から。




父は50年間、料理人でした。栄養士の短大を卒業後、
東京都内の伯養軒という店で修行し、
秋田に戻ってすぐに自分の店を構えました。
野心からではなく、阿仁という田舎から東京へ出ていき、
慣れない都会生活で心を病んだ父に、
祖母が資金を出し店を持たせたのです。
その店は保戸野通町にありました。
事業は成功してしまい、ひっきりなしに客が訪れ、
繊細過ぎて人と関わることが苦手な父は、
自分の味が落ちるほど客が来るとパニックになり…、
母親が勧める縁談で結婚をして
店を手伝ってもらうことにしました。

ですが、忙しすぎて生まれた娘を
妻の実家に朝から晩まで3年間預ける始末。
たまに妻を早めに帰宅させると妻は疲れて眠っており、
小さな娘だけが起きてパパを待ち、
小さな手でお酌をする…
そんな暮らしをやめ、新興住宅地に住居兼店舗を構えて
食堂を始めます。
お客の数は激減し、生活レベルは落ちたけれど
父は満ち足りていたんだと思います。

けれど母は日々のやりくりで精神的に疲れ
喧嘩が多くなっていきました。
深夜まで続くふたりの大喧嘩。
それでも父はよく言いました。
「何があってもどんなに憎みあっても離婚だけはしない」
父の母親は未婚の母でした。
父親不在が成長過程で大きな影を落としていたからでした。

それが良かったかどうかわからないけど
父の病気が判明したのち父と母の関係は一転し、仲睦まじい姿。

最初からそれを見せてくれればよかったのに、と思いつつ
それがふたりの道のりだったんだなと…。

白衣と油まみれのテーブルと丸い回転椅子、おかもち、
大きなフライパン、店内にただよう豚骨の匂い。
無口な父のたたずまい、
チャーハン作るときの鍋をたたく音。
いろいろ思い出します。

この写真は、闘病生活の中で
父が珍しく笑ったときの一枚。
抗がん剤を少し休んだらみるみる元気になり、

孫を見て笑っていました。


父は仕事より大事にしてきた、
妻、娘、息子、孫に見守られて最期を迎えました。

いざ、写真を探すと母がもってる写真は若すぎたり、
やせすぎたり。
ふとこの写真があったことを思い出し見せてみると
親戚みんなが「ああ、この笑顔だね」と。
これこそ父の笑顔だと。



遺影写真を撮ることは、
縁起が悪いと考える人も多いと思います。
でも、故人の笑顔が
周りを支えていたことを家族はあとから気づきます。
いつもの笑顔が仏壇にあって
毎朝見ることができたなら。
色々あろうが、いのちを全うしてくれたことへ
感謝が湧いてくると思うのです。

 

父の母のなけなしの暮らし、
その中からわたしに遺された20万円で
わたしは新しいカメラを買いました。
そして今を遺す仕事を本気で始めました。 



皆それぞれの物語を持っています。